新潮文庫・矢崎源九郎 訳・1953年8月刊行

小鳥のように愛され、平和な生活を送っている弁護士の妻ノラには秘密があった。夫が病気の時、父親の署名を偽造して借金をしたのだ。秘密を知った夫は社会的に葬られることを恐れ、ノラをののしる。事件は解決し、夫は再びノラの意を迎えようとするが、人形のように生きるより人間としていきたいと願うノラは三人の子供も捨てて家を出る。近代劇確立の礎石といわれる社会劇の傑作。(以上、新潮社HPより)

批判的に乗り越えられるべき名作

森鴎外の『舞姫』しかり、島崎藤村の『夜明け前』やドストエフスキーの『罪と罰』もそうだと言えると思うが、名作だとされているが、物語の展開や登場人物の印象に対して、どうしたって批判的に感じる小説って、割とある。

『舞姫』の太田豊太郎は安定してクズだ畜生だと言われているし(私も一読してそう思った)、『夜明け前』にしても、もうちょっとうまく行動できなかったか、考えられなかったか、と思うし、『罪と罰』も長々と小僧の肥大した自意識について読ませられている感覚を持つだろう。

しかし、だからといって、そうした作品は現代ではもう読む必要がないのだろうか?

『人形の家』においても、ノラという人物像は、フェミニズムや女性の社会進出というテーマにおいても、さすがに古すぎる問題点を扱っているとは言えるだろう。

何というか、昭和時代のホームドラマを今さら見せられているというか、さすがに現代はもうそこまで女性は抑圧されていないよ、とさすがに感じてしまう。

じゃあ、『人形の家』はもう鑑賞に値しない骨董品かというと、全然そんなことはなくて、フェミニズムといったテーマでなくても、家族の問題や格差の問題や差別の問題などあらゆる課題において、やっぱり幸せな境遇に置かれていない人は大勢いるわけで、そういう人の心に刺さる力をこの作品は持っているわけだ。

言葉の選び方や、台詞のその強度が、読む人の心に訴えかけるのである。やはり名作の多くには普遍性がある。

「いじられやすい」内容の作品

とはいえ、それでもやはり「批判的に乗り越えることを誘ってくる」ような隙の多い内容ではありますね。

『舞姫』もそうだけど、逆にこの隙の多さがスゴイと思うんだよな……。

イプセンの人形の家
投稿者

管理人ひのき

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