新潮文庫・原卓也 訳・1978年7月刊行
物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。
19世紀中期、価値観の変動が激しく、無神論が横行する混乱期のロシア社会の中で、アリョーシャの精神的支柱となっていたゾシマ長老が死去する。その直後、遺産相続と、共通の愛人グルーシェニカをめぐる父フョードルと長兄ドミートリイとの醜悪な争いのうちに、謎のフョードル殺害事件が発生し、ドミートリイは、父親殺しの嫌疑で尋問され、容疑者として連行される。
父親殺しの嫌疑をかけられたドミートリイの裁判がはじまる。公判の進展をつうじて、ロシア社会の現実が明らかにされてゆくとともに、イワンの暗躍と、私生児スメルジャコフの登場によって、事件は意外な方向に発展し、緊迫のうちに結末を迎える。ドストエフスキーの没する直前まで書き続けられた本書は、有名な「大審問官」の章をはじめ、著者の世界観を集大成した巨編である。(以上、新潮社HPより)
むしろ「理」など要らないのでは?
非常に長大な作品なので、特に心に残った「大審問官」と「スメルジャコフ」についてのみ話したい。
「大審問官」の迫力は読んでいて圧倒されっぱなしだったことを今でも憶えている。
ただ、これは「大審問官」の箇所のみに言えることではないが、逆に作者が「論理的なもの」に自縄自縛になっているような気が、しないこともなかった。
いや、もちろん読んでいて「文学」というものの唯一無二の迫力は十分に味わえたのだけど。
この自縄自縛の苦しみが、ドストエフスキーの作家性を形作っていると判断することがフェアではあるのだろうが。
『悪霊』にはそんな「理」はなかった。
『悪霊』には本当に、ドストエフスキー自身でさえ制御できなかった反論理的な闇が漂っていた。
なまじ『悪霊』を読んでいるから「大審問官」にさえ要らぬ「納得感」を受け止められてしまったのだな。
悪魔的人間
スメルジャコフの人物造形の妙味は、本当に恐ろしいものを覚える。
『悪霊』のスタヴローギンより闇深い。
「私はあなたの代わりに殺人を犯しました。殺人の罪はあなたにあります。私はあなたです」
と述べるスメルジャコフは、もう悪魔としか言いようがない。
いや、しかし、スメルジャコフは悪魔ではなく人間なのだ。
スメルジャコフは人間なのだ、と思い留めておくことが『カラマーゾフの兄弟』を読む上での肝だろう。
結末の、ある意味能天気なカタルシス
少年たちと「カラマーゾフ万歳!」という……このブルドーザーのようなカタルシスの設置は、さすがドストエフスキーだなぁ……。
続編を予定していたとはいえ……。
世界文学のジャイアンみたいな人だ。
