新潮文庫・若島正 訳・2006年11月刊行
「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う決定版新訳。注釈付。(以上、新潮社HPより)
幻想を描いた、登場人物がごく少ない小説!?
この『ロリータ』という小説の主な登場人物は、ハンバート・ハンバートとシャーロット・ヘイズ(ロリータの母)の二人ぐらいしかいないのではないか……?と思えてくる。
シャーロット・ヘイズも、間もなく事故死してしまうが。
劇作家は現実に存在しないし、ましてやロリータ(ドロレス・ヘイズ)などという者も、少なくともハンバート・ハンバート自身が愛憎を込めてそう規定している存在としては、現実に存在していないのではないか。
そう認識して読んでも、さほど読み筋に苦労しないのだ。
カフカの作品と違い、このナボコフの『ロリータ』という小説は、正確な「現実」というものが一切書かれていないのではないかと、思えもする。
すべてはハンバート・ハンバートという哀れな知識人の、その頭の中にあるだけの幻想なのではないかと。
現実を否定する執念
カフカと違って、ナボコフは現実というものにあまり興味がないのではないか。
現実というものを軽蔑しているようにさえ見える。
『アーダ』などの作品を読んでいても思うが、ナボコフはとにかく変態的に知識があるので、一個の、ナボコフなりの現実を、紙幅にあらわすことなど容易だからだ。
頭の外の現実などには目もくれず、頭の中と紙幅に甘美で濃厚な現実を創造するには、知識と執念が必要だ。
ただ『ロリータ』を最後まで読むと、その精魂を傾けてつくりだしたナボコフの現実が、ナボコフ自身によって否定されるような、拒絶されるような構造にもなっていて、そこにナボコフの苦しみや悲しみが読み取れる。
読み取れるのだが……その苦しみや悲しみをどう言い表されようか?

