新潮文庫・芳川泰久 訳・2015年6月刊行
娘時代に恋愛小説を読み耽った美しいエンマは、田舎医者シャルルとの退屈な新婚生活に倦んでいた。やがてエンマは夫の目を盗んで、色男のロドルフや青年書記レオンとの情事にのめりこみ莫大な借金を残して服毒自殺を遂げる。一地方のありふれた姦通事件を、芸術に昇華させたフランス近代小説の金字塔を、徹底した推敲を施した原文の息づかいそのままに日本語に再現した決定版新訳。(以上、新潮社HPより)
世界文学史上、最も優れた小説
と、言い切ってしまっても大きな非難は受けないだろう。
「世界文学史上、最も偉大な小説」は何かと聞かれれば『ドン・キホーテ』『カラマーゾフの兄弟』『白鯨』などなど列挙されようが、「優れた小説」と聞かれれば、これはもう『ボヴァリー夫人』なのではないか。
最も適切なセンテンスが始終綴られてゆく!
プルーストの『失われた時を求めて』が一つの大きな契機だろうか、世界文学は書けるだけのすべてのことを余さず書くことが、特徴となった。
それ以前からトルストイの『戦争と平和』などもあったが……ムージルの『特性のない男』やドン・デリーロの『アンダーワールド』、トマス・ピンチョンなどは顕著だろう。
不足なく、ありったけをすべて書くという作風だ。
しかし、フローベールはその創作において、一つ一つのセンテンスの連なりにおいて、常に最も適切な叙述を抽出していく。
推敲に推敲を重ね、寡作であり、筋肉質で均整のとれた彫刻のような小説を表していく。
「ものを書く」という、人類史上脈々とつづく、芸術的であり革命的でもあるその営為において、フローベールのような奇蹟的な仕事を成し遂げられた者が、他にどれほどいるだろう?
芸術自体は貴くない。貴くさせるのが芸術なのだ
「僕たちが自習室にいると、校長が入ってきて、後ろから私服を着た新入生と大きな机を抱えた用務員が付いてきた」
「職人たちが川縁にしゃがみ込んで、腕を水に浸けて洗っていた」
「平坦な畑がはるか彼方まで広がっていて、農家を囲む木立が間遠に、灰色の広大な野面を背景に黒紫のしみをつけていて、その広がりは地平線上でくすんだ色調の空に紛れていた」
上記は作中の引用だが、書かれていることはある意味平凡なことなのだ。
単なる、間抜けな姦通事件。
だが、その描写の仕方が、文体が完璧なのだ。
平凡な人間の、当人にとっては人生を揺るがす大事件だろうが、他人からすれば平凡な出来事が、フローベールの類まれなる職人技で、紛うことなく芸術的な文学作品として成立する。
かえって、素材が凡庸なほど、文学に仕立てやすいのかもしれない。
平凡で愚かな人間模様こそが、芸術になるのだ。

