ハヤカワepi文庫・高橋和久 訳・2009年7月刊行

〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する超全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。しかし彼は、以前より完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと出会ったことを契機に、伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが……。解説/トマス・ピンチョン。(以上、Hayakawa Onlineより)

世界文学というより、人類史上に残る遺産

「君が犯した愚かな罪などに興味はないのだよ。表面に現われた行為など、党の関心の埒外(らちがい)にある。思考だけがわれわれの関心ごとなのだ。われわれはただ敵を滅ぼすだけではない。敵を改造するのだ。わたしの言いたいことが分かるかね?」

今さら改めて言うことでもなく、本当に手垢のついた、中二病的なお題目ではあるが、人類の歴史は戦争の歴史である。

それはいい。

それはいいというか、単純に史実であろう。

しょっちゅう争っている。

ただ、そこでちょっと詳しく見ていくと、国家間の戦争ももちろん無数に起きてきたのであるが、それと並ぶくらいに多くの「内戦、反乱、革命、独立戦争」、つまりある一定の国内・領域内・民族内・勢力内での戦争が起きている。

内戦では南北戦争、スペイン内戦、キプロス紛争 etc.

反乱ではスコットランド独立戦争、ユグノー戦争、太平天国の乱 etc.

革命では清教徒革命、名誉革命、フランス革命 etc.

独立戦争ではアメリカ独立戦争、バルカン戦争、ベトナム戦争 etc.

国家間の戦争といっても、当事者であるその国の内部で統率がとれていないと勝負にならないわけで、

人類の歴史は戦争の歴史というよりも、人類の歴史は共同体統率のための試行錯誤の歴史だったと言った方が、より実態に沿っているのではないか。

何をもって統率してきたかといえば、宗教であったり軍隊であったり警察であったり共産主義であったり資本主義であったり、いずれはAIであったり(?)したわけだ。

どれほど強力に、狡猾に、首尾よく「統率」するかという問題こそ、科学技術や軍備よりも重要、というかそれらよりも土台に位置する問題であり、人類にとって未だ最大のタスクではないだろうか。

そして『一九八四年』は、小説として「統率」という概念を、とてもグロテスクかつテクニカルに描き切った、人類史上に残る大傑作である。

「ジュリアにしてくれ! これと同じことをジュリアに! わたしにじゃない。彼女になら何をしても構わない。顔を引きちぎってもいいし、骨まで食い尽くしても構わない。わたしはだめだ! ジュリアだ! わたしじゃない!」

大傑作は言葉に対してフェティッシュである

『一九八四年』の世界では、書籍・定期刊行物・パンフレットから漫画にいたるまで、ありとあらゆる「文書」が、党にとって正当性のある、完全に無矛盾な記載となるよう変造が行われている。

また『一九八四年』の巻末に附録として収録されている「ニュースピークの諸原理」は、ニュースピークという作中内言語の学術的な論文のような体裁になっている。

「ニュースピークの諸原理」を収録すること自体、『一九八四年』という小説を形作る上での一つの「仕掛け」なのだが、正直この論文自体は蛇足に思う向きもあるだろうし、読んでいて魅力的だとはっきり言えるものでもない。

ここで注目すべきなのは、ジョージ・オーウェルの「言葉」に対するある種偏執的な、フェティッシュなこだわりだろう。

思えば、歴史に残る傑作には、フェティッシュな、言葉に対するこだわりを如実に作中に落とし込んでいるものが結構ある。

ナボコフの『ロリータ』や、

大西巨人の『神聖喜劇』などが、すぐに思い浮かべられる。

そのどれにも共通することなのだろうが、「テキスト」というものに良くも悪くも力があること、「テキスト」というものが人の認識や価値観を変容させることを、いずれの作家も確信していたのだろう。

そしてジョージ・オーウェルの『一九八四年』に込めたフェティッシュな言葉に対するこだわりとは、すなわちニュースピークに対する説明になるわけだが、「ニュースピークの諸原理」の、一般読者が読中読後に感じる「つまらなさ」「どうでもよさ」が、逆説的に恐ろしいものに感じられてくる。

それはつまり、「つまらない」「どうでもよい」「とっつきづらい」「難解」「面倒」な類の支配者側の施策が、実際は「統率」のための非常に重要なギミックになっているということだ。

「二重思考」や「二分間憎悪」といった施策の方が、全然可愛らしいし、むしろ「誠実」な統率手法にすら思える。

ある種分かりやすい、目立つ施策だからだ。

ニュースピークはいやらしく、こびりつくように「統率」の要(かなめ)となり、人民の無意識を蝕んだのだ。

「ニュースピークの諸原理」が「過去形」で記述されていること、つまり党の支配が未来には瓦解したことを示すことが一つの「仕掛け」であるのだが、

私としては、ニュースピークの「つまらなさ」「どうでもよさ」が、現代の行政による「統率」を思うとき、すっかりそのまま、生き写しで継続されているのではないかと想起されてしまい、とてもゾッとしたのだ。

要は、都合の悪いことは分かりづらく言うよね、というか。

「彼は今、〈ビッグ・ブラザー〉を愛していた。」

と、作中に出てくるが、愛して、盲目になることが自立した人間としての完全な死を意味するのではないか。

そうはならず、「とっつきづらい」「難解」「面倒」な物事にしっかり向き合うことが、ゆがんだ「統率」から逃れる一手なのだ。

ジョージ・オーウェルの一九八四年