新潮社・鼓直 訳・2006年12月刊行
蜃気楼の村マコンドの草創、隆盛、衰退、そして廃墟と化すまでのめくるめく百年を通じて、村の開拓者一族ブエンディア家の誰彼に受け継がれた孤独の運命は、絶望と希望、苦悩と悦楽、現実と幻想、死と生をことごとく呑み尽くし……。1967年に発表され、20世紀後半の世界文学を力強く牽引した怒濤の人間劇場が、今、再び幕を開ける。(以上、新潮社HPより)
最も驚かされたのはその「リーダビリティ」の高さ
ホセ・アルカディオ・ブエンディア、ホセ・アルカディオ、アウレリャノ・ブエンディア大佐、アルカディオ、アウレリャノ・ホセ、ウルスラ・イグアラン、アマランタ・ウルスラ……ほとんど同じような名前の登場人物が延々と現れる。
決して短くない分量の小説世界内に、天変地異・戦争・産業の発達など、歴史や文明がエネルギッシュに刻まれていく。
いまの日本の小説新人賞に投稿したら「登場人物が多すぎるし名前が分かり辛い」と突き返されるに違いない(笑)。
しかし、読了して実感する最初のことは、「全然読みにくくなかった!」という思いである。
これは、かなりすごいことだ。
翻訳者の鼓直氏が達者であったことは間違いないが、あまり特記されることはないが、小説家以前に単に「物書き」としてのガルシア・マルケスのその「サービス精神」の良さみたいなものが、作品のリーダビリティの高さに表れている気がする。
突然変異的な作品ではない
『百年の孤独』はいわゆるマジックリアリズムと呼ばれる作品だが、文学の歴史の中で突然変異的に書かれた特異な小説……というわけではないと思う。
ガルシア・マルケスの読書遍歴を調べると、ジェイムズ・ジョイスやフランツ・カフカ、ウィリアム・フォークナー、ヴァージニア・ウルフ、ミゲル・デ・セルバンテスなど、これ以上ないくらいど真ん中の王道だ。
こうした現代世界文学の王道の先に『百年の孤独』が当然の帰結として書かれたと説明されても、案外納得のいくものがある。
ジョイス、カフカ、フォークナー、ウルフ、セルバンテス……どの作家も決して「幻想」や「非現実」を描いたわけではない。
徹底して現実を描いたか、徹底して変則的に現実を描いたかの、どちらかだ。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も、まさに「マジック的」ではあるが、南アメリカの壮大な現実=リアリズムが描かれた作品なのだ。
寂寥感、哀切さ
物語の終盤に、末代の登場人物が蟻の大群にその死体を運ばれていく様、マコンドが滅亡していくその様の寂寥感と哀切さは何だろうか?
小説内のエピソードの一つ一つは、ステレオタイプな南アメリカらしさというか、享楽的な印象がある。
なのに、『百年の孤独』の小説全体から読み取れる儚さは、何だろうか?
やはり、名作というものは幾重にも読み取れ、問いかけを残すものなのだろう。

