岩波文庫・杉山晃/増田義郎 訳・1992年10月刊行
ペドロ・パラモという名の,顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく.しかしそこは,ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった…….生者と死者が混交し,現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し,ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作.(解説 杉山 晃)(以上、岩波書店HPより)
常世(とこよ)の話
先日、新海誠監督の映画『すずめの戸締まり』を観てきた。
それに「常世」の描写が出てくる。
神道や日本神話における概念だ。
まあ、ざっくり言えば「死後の世界」のことであろう。
もっと突っ込んで言えば、死者と生者・過去/現在/未来が同じ領域に存在している、そういう解釈を私はした。
部分であり、同時に全体であるということだろう。
始まりであり、同時に終わりであるということだ。
小説では、「常世」を表現することが可能なのだ。
自分の理解ではフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』や、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』、筒井康隆の短編に『遍在』という作品があるが、それらは「常世」という概念から読むと、何とか肌感覚で理解できるものがある。
ただ、あけすけに言ってしまうと、小説での「常世」の表現とは、すなわち「昔のアバンギャルド」であり「レトロな前衛」なのだ。
これは、悪く言っているのではなく、あまり学問的にいまさら変にありがたがることも無いよね、ということだ。
相当、踊(ダンス)っちまえる文体になるので、その昂揚に身を任せよう。
メキシコの「常世」で踊(ダンス)っちまおう
『ペドロ・パラモ』は、メキシコという国の「常世」の中の話である。
「話」という言い方も、何だかしっくりこない。
浮かんで、消えたものだ。
その断片が、奇跡的に文としておこされたのだ。
正直、一読ではまったく意味が分からない。
筋を追うのは無理筋だ。
何度も読み続ける、という選択肢ももちろんあるだろう。
ただ私としては、一読の、そのライブ感、グルーブ感を愉しむことも、相当にキマった読書体験になるだろう。

