岩波書店・菱木晃子 訳・2018年8月刊行
世界中で愛されてきた,だれよりも強くて自由な女の子.「ピッピ」の物語をスウェーデン語初版挿絵と新訳で.
1941年の冬,病気の娘を元気づけるためにリンドグレーンが語り聞かせたのが,世界一強くて自由な赤毛の女の子の物語.世界中で愛されてきた「ピッピ」を,作者自身がお気に入りだったイングリッド・ヴァン・ニイマンによる挿絵と新訳でお届けします.ハチャメチャだけど心やさしくまっすぐなピッピの活躍から目がはなせません.
「私は,自分自身のなかにいる子どもを喜ばせるために書いてきたの.それを,ほかの子どもも同じように楽しんでくれるといいなと願っただけ」
――アストリッド・リンドグレーン(以上、岩波書店HPより)
世界一つよい女の子
これほど世界中で、政治的に、モラル的に、教育的に、フェミニズム的に……その他さまざまな領域で俎上に載せられた女の子は少ないのではないか。
優に70年以上にわたり世界各国で、好意的にも、また批判的にも受け止められてきた女の子。
好意的に捉えれば、心が温かく、エネルギーと遊び心のある女の子。
批判的に捉えれば、有害であり規格外であり、ポリコレの小悪魔。
そういった議論を受け止めて、そして、ヒョイと飛び越えて、多くの読者を依然魅了し続けていることこそが、ピッピという女の子の「つよさ」だろう。
馬を片手で持ち上げたり、火事から子供を助け出す「つよさ」と、より抽象的でややこしい議論を受け止めて、それでも楽しく変わらずにいる「つよさ」、この2つを持ち合わせているのが世界一つよい女の子ピッピなのだ。
「なんておもしろい、おもしろい、おもしろい火事でしょう!」
それから、ぽーんととんで、ロープにうまくつかまりました。
「わーい!」
ピッピはどなると、いなずまのようなはやさで、地めんにすべりおりました。
ミューズでも、アルテミスでもなく
幼年の読者なら特にそうだろうが、ピッピに憧れを抱くのは当然のことだろう。
ヒーローでもあり、ヒロインでもあるようなキャラクターだからだ。
ピッピの独創性や、自由な発想とそのアウトプットに惹かれ、ピッピをミューズと崇めることもできようし、
ピッピのタフネスさや、フィジカルなパフォーマンスに拍手喝采する人は、ピッピをアルテミスと崇めることだろう。
そういう読み方でもまったく問題はないのだが、ふと立ち止まって、自分自身とピッピを照応させることもまた、良い読み方なのではないか。
とはいえ、読者は馬を片手で持ち上げたり、火事から子供を助け出すことはなかなかできないので……ピッピの内面的な魅力に、自分自身を結合させることを試してみるといいと感じる。
ピッピという女の子は自由連想法というものをカリカチュアさせた存在ではないだろうか。
「ヘビのことだったらね、」と、ピッピはいいました。「わたし、インドで大蛇とたたかったときのこと、ぜったいにわすれないとおもうわ。そのヘビのすごいことったら、あんたたち、想像もつかないわ。長さが十四メートルもあってね、ハチみたいにおこりっぽいの。それで、まいにち、インド人を五人たべて、食後のデザートには、ちいさな子をふたりたべるのよ。ある日、その大蛇がやってきて、デザートにわたしをたべようとおもってね、わたしのからだにまきついた、……キューッとね。……でも、『船のりのつよいの、しらないか』って、わたしはいうとね、大蛇の頭をなぐったわ、……ボイーンとね。」
普通の人どころか、箸が転んでもおかしい年頃の子さえやり過ごすような事象に対しても、その受け止め方が何ともファンタスティックである。
それが『長くつ下のピッピ』の児童文学として突出した部分であろうし、ある種高踏的な批評においても取り上げられる部分に思える。
とはいっても、『不思議の国のアリス』のように言語的、という訳でもないんだよな。
ナボコフ的でも、もちろん無い。
それはそれでいいと思うんだけども。
自分自身とピッピを照応させる、というのは、要するに自分自身の幼年時もこのような屈託のない自由連想法の動物であった、というのを思い出してみようよ、ということである。
私としても『長くつ下のピッピ』を読んだ上での一番強い感想というのは、
もっと頭をやわらかくしよう
頭の中で自分で自分に壁をつくるのは止めよう
というものだった。
そうすれば、ピッピを上に見て盲信するというのではなく、ピッピとコネクトし、ピッピのような人に近づけられるのではないか。
それが世界一つよい児童文学との接し方だろう。
「やくにたつことを、山ほどおそわる。たとえば、かけ算の九九なんかもね。」
「わたしは、竹さんの靴なんてものをしらなくたって、九年間、ちゃんとやってきたわ。」と、ピッピはいいました。「だから、これからだって、やっていけると思うわ。」

