平凡社ライブラリー・澤田直 訳・2013年1月刊行

20世紀が秘匿した最後の巨匠とされるポルトガルの作家の書。異なる人格となって書かれた作品群のひとつ「不穏の書」と諸人格による「断章」をおさめる。旧版を大幅に増補改訂。 解説=池澤夏樹(以上、平凡社HPより)

「永遠」と「無限」の人

と、いうと何とも中二病っぽいが、「終わらないこと」「数限りなくあること」の考察が書かれた書なのだろう。

「私」と「他者」を、「永遠」と「無限」のものとして、無数の可能性を有する宇宙の「泡」に、それぞれ散布した書なのだ。

フェルナンド・ペソアは1888年~1935年を生きた詩人・作家である。

ポルトガルのリスボンの貿易会社で商業通信文を翻訳することで慎ましく生計を立て、生活に必要な収入を得るために最低限の仕事だけをこなし、残りの時間はすべて執筆に当てていたが、名声を得たのは死後のことだ。

ペソアは、ペンネームとか偽名とかゴーストライトといった手法ではなく、ペソア自身とは異なる人格とエクリチュールを持った「異名者」を創造し、その「異名」をもって執筆をした。

ぺソアが案出した名前は70にのぼるという。

「多重人格設定」みたいなものとも違うのだろう。

ぺソアという人格の外にある、まったく違う境遇の人間を創造したのだろう。

それら人間たちは、ぺソアの中にいながら、同時に、ぺソアとはまったく違う場所に位置し、ぺソアとはまったく違うものを書いているのだ。

「わたしとは、私と私自身とのあいだのこの間(ま)である。」

「私があらゆることを想像できるのは、私が無だからだ。」

「神は一なる存在ではない。どうして、私がひとつでありえようか。」

「この本をここまで読んできた者は誰でも、私のことを夢想家だと想像するにちがいない。だが、それはまったく見当外れだ。夢想家であるためには、私には経済的余裕がない。」

「そう語る私。――それでは、なぜこの本を書くのだろうか。それが不完全だと認めるからだ。沈黙すれば、完璧になってしまう。ところが、書いていれば、不完全のままだ。それで書いているのだ。」

ぺソアの言葉に触れて思うのは、こうした独言や箴言が、きっと永遠に続くのだなという、「確信に近い予感」だ。

ぺソアはきっと、「異名」を無限に創り出せたのだ。

それを、ぺソア自身とはまったく違う存在に創り出せるということが、ぺソアという作家の大きな特徴であろう。

「探しても、信じてはいけない。すべては隠されている。」

「神の不在。それもまた、ひとつの神である。」

「神話とは、すべてである無だ。」

ぺソアの「異名者」が織りなす永遠性は、完璧性や神性と絶対的に反発するために、無限にテキストを記述していく。

ここに、ぺソアの無限性がある。

ある種グロテスクなぺソアの永遠性は、決して神の領域には接地しない。

神が日向であれば、ずっとぺソアは日陰であるということだ。

ぺソアとその無限の「異名者」たちは、神性に到達しないために、沈黙して不変のものとならないために、永遠にテキストを記述していく。

そして生きることも死ぬこともない。

「誠実さは芸術家が克服すべき大きな障害のひとつである」

「私は韻など気にしない。隣りあった二本の樹が同じであることは稀(まれ)だ。」

「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。」

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である。」

「人生において、唯一の現実は感覚だ。芸術において、唯一の現実は感覚の意識だ。」

「霊感(インスピレーション)を受けた詩人という神話から脱却しなければならない。」

「芸術において重要なことは表現すること。表現されたもの自体はつまらぬものだ。」

「私は進歩しない。旅をするのだ。」

「なぜ芸術は美しいのか。それが無用だからだ。なぜ人生は醜いのか。それが目的や目標や利害を持つからだ。」

ぺソアとその「異名者」たちの、詩や芸術への態度はきわめて明晰である。

というか、遠慮がない。

ぺソア「たち」のこの遠慮のなさが、とても好きだ。

思えば、詩や芸術というものは、山頂がずっと見えない峻厳な山々だ。

そういう愛すべき途方もない存在に向き合うのに、せせこましい遠慮など不要なのだ。

カフカとぺソアを読むと

カフカとぺソアを読むと、その感想は自然と饒舌になる。

カフカは徹底して現実しか書かないから、自分としても身構えて、腹に落ちるような感想を自身の中に並べ立てないと、やっぱりちょっと不安になるのだ。

ぺソアの書くものは無限なので、さまざまな可能性や次元に身を置きながら、いくらでも物が言える。

それは私だけの特権ではなく、きっと誰でも言えるだろう。

思うに、ぺソアを読むと「オリジナリティ」という用語がひどくナンセンスなものに思えてくる。

ぺソアは永遠であり無限であることが「決定」しているのだから、それはすなわち、私たちの誰もがぺソアの「異名者」なのである。

なので、「オリジナリティ」とか、独自性というもの自体に価値はまったく付与されないのだ。

まあ、ここで私がうだうだ理屈を並べないでも、ぺソア「たち」がとうの昔に、とっくに言うべきことは言っている。

私たちは、本当にぺソア「たち」に感謝するべきだろう。

ぺソア「たち」のお蔭で、実に多くの余計なことを言う必要がなくなったのだから。

「宇宙のように 複数であれ」

「いったい、この劇場なき芝居はいつ終わるのか。あるいは芝居なき劇場は。私はいつ家に帰れるのだろうか。どこに、どうやって、いつ。」

フェルナンド・ペソアの不安の書と不穏の書