新潮文庫・高橋義孝 訳・1969年2、3月刊行

第一次大戦前、ハンブルク生れの青年ハンス・カストルプはスイス高原ダヴォスのサナトリウムで療養生活を送る。無垢な青年が、ロシア婦人ショーシャを愛し、理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者セテムブリーニ、独裁によって神の国をうち樹てようとする虚無主義者ナフタ等と知り合い自己を形成してゆく過程を描き、“人間”と“人生”の真相を追究したドイツ教養小説の大作。

カストルプ青年は、日常世界から隔離され病気と死に支配された“魔の山”の療養所で、精神と本能的生命、秩序と混沌、合理と非合理などの対立する諸相を経験し、やがて“愛と善意”のヒューマニズムを予感しながら第一次大戦に参戦してゆく。思想・哲学・宗教・政治などを論じ、人間存在の根源を追究した「魔の山」は「ファウスト」「ツァラトストラ」と並ぶ二十世紀文学屈指の名作である。

人生は長いが、終わる時はあっけないものである

「ここではそもそも、時間は流れないとぼくはいいたいね。ここのは時間なんていうもんじゃない、また生活なんていうもんでもない——そうさ、何が生活なもんか」

『魔の山』は、時間の流れや歳月の重みの描き方が実に巧妙だという評価がある。

また、主人公ハンス・カストルプを含め、登場人物たちの物語からの去り際・死に際の描き方にもハッとさせられる「うま味」がある。

「時間はいったい何を生みだすのか。時間は変化を生みだすのである。」

世界文学の中でも、ど真ん中の名作であるので、さまざまな批評が『魔の山』には与えられているだろうから、ここはあえてライトに言うが(というかライトにしか言えないが)、

人生って長いよね。でも死ぬ時やいなくなる時はあっけないものだよね。

ということが『魔の山』を読んだ感想としては実感のあるものだろう。

ただ、人生は長いのだが、「長く感じる」かというとそれは甚だ怪しいもので、本人の気持ちやペースに関係なく、大急ぎで時は過ぎ去っていく……。

その瞬間その瞬間で、幸福や満足を感じ入ることもろくにできず、時間の奴隷の、操り人形のようになってしまいがちだ。

1日1日を丁寧に生きるとは、なかなかし難いものだ……。

実相というものは掴みにくい。

それでいて、去り際・死に際は落とし穴に落ちるようにあっけないものだ。

ヨーアヒムとナフタの死に際に対しては、謹厳にならざるを得ない。

そのあっけなさに、弔意を表するしかあるまい。

知の百科事典や!

『魔の山』は非常に大部の小説だが、その中にありとあらゆる知と教養が詰め込まれている。

哲学・科学・文化・芸術・政治、なんでもござれだ。

『黒死館殺人事件』どころではない(?)。

少なくとも、第一次世界大戦までのヨーロッパの、ありとあらゆる情報が盛り込まれていると、私には思えてしまった。

『魔の山』はそういった特大の知識や知恵を、主人公ハンス・カストルプに教え込むという形式になっていると窺えたのだが、そうして教え育て上げられた一個のかけがえのない人間が、第一次世界大戦の戦場にあっけなく死にゆく……という結末が、言葉の本当の意味での「教養小説」とされる所以ではないか?

ハンス・カストルプを「対照」とすること、それが世界大戦後の世における真の教養である。

トーマス・マンの魔の山
投稿者

管理人ひのき

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