講談社文庫・1998年12月刊行
密室から飛び出した死体。究極の謎解きミステリィ。
コンピュータに残されたメッセージに挑む犀川助教授とお嬢様学生・萌絵。
孤島のハイテク研究所で、少女時代から完全に隔離された生活を送る天才工学博士・真賀田四季(まがたしき)。彼女の部屋からウエディング・ドレスをまとい両手両足を切断された死体が現れた。偶然、島を訪れていたN大助教授・犀川創平(さいかわそうへい)と女子学生・西之園萌絵(にしのそのもえ)が、この不可思議な密室殺人に挑む。新しい形の本格ミステリィ登場。(以上、講談社BOOK倶楽部より)
きわめて選択肢の乏しい、不自由な身の振り方
ゲームばかりしていたり、漫画ばかり読んでいちゃ駄目だ、もっと現実を見て、つらいことにも歯を食いしばって一生懸命働けだとか、付き合いというものもあるのだから、メールやスマホばかりやっていないで、実際に顔を向き合わせて話し合うのが一番いいのだ、酒でも飲みながらフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションをとるのが正しい人間のあり方だ。
……というある種の風潮というか考え方は昔からあるだろう。
で、「なんだかんだで実はそういう考え方が本当の正解なんだよ」というニュアンスも含まれていたりする。
「現実」と聞くと覚えるマイナスイメージ
基本的に、現実は厳しい。
いいこともあるだろうが、嫌なことが多いのが普通だ。
それを「耐えて」「苦しい思いをして」乗り越えてゆけ、というのが「理念」として厳然としてある。
しかし、そのつらい現実の先に何があるのか、何のためにつらい現実に耐え続けるのか。
答えは「夢・目標の実現」「生活の維持・向上」「地位」「名声」といろいろあろうが、一言でいえば「快楽」のためだと、私は思う。
まとめてしまえば「快楽」のためだ。
ワーカーホリックの中毒効果はマゾヒズムに似た「快楽」だし、「がんばっている私」という自己陶酔もまさに「快楽」だ。
「快楽」を得るために、人は「現実」に耐えるのである。
匣の中の悦楽
しかし、ゲーム・漫画・パソコンのバーチャルな世界、「反現実」は人々に苦難を与えずに、ダイレクトに「快楽」をもたらすのだ。
正しくいえば、「快楽」を迅速・効果的に与えるために「反現実」は生み出された。
「快楽」を得るために「現実」で超長期間苦しんでも、実際には「快楽」を得られないという現代の社会の「現実」。
苦しみに苦しんでも「快楽」を得られない「現実」がある。
ならば「快楽」を得るために「現実」で労苦を重ねるという前提自体がそもそも間違いではないのか。
いままで度外視されていた「反現実」での「快楽」に目を向けるのも、ある意味自然な流れだ。
内心「やってらんね」と思っている
「現実」でがんばっても「快楽」は得られない、しかし「反現実」では「快楽」が約束されている。
むしろ、「反現実」での「快楽」を創造するために、人類は「現実」の中で苦しんできたのではないのか?
「現実で努力すること自体に充実感という快楽があるのだ」という熱心な人には、「その人が現実と認識している世界で努力することに、快楽を与える」と、「反現実」でセットしてあげればよい。
究極の快楽の先にある生きるための勇気
その時、「反現実」は「現実」となり、そして「現実」という概念そのものが幻となることは、いうまでもない。
もっと極端にいえば、生きていること自体が苦痛そのものだ。無にかえってしまいたい、と思う人もいるだろう。
その人にとって「死」は「快楽」であり、死んでいること、「無」であることが、人間にとって実は究極の「快楽」なのかもしれない。
『すべてがFになる』という作品は、そういったことを私達に語りかけている。
それを知れば勇気が出るのだ。